shuffleyamambaを巡る考察


shuffleyamambaはアメリカ人実験音楽家のゲルシー・ベルと日本人振付家の余越保子による共同企画である。女性芸能者の目線から、継承について考証を行い、ダンスと音楽と女性アーティストの親密な関係を巡る。

 

ゲルシー・ベルは、2013年にNew York Live Arts主催公演、余越保子振付演出作品「ベル」にシンガーとして出演。長唄京鹿の子娘道成寺を杵屋三七郎氏のもとで習得し、驚くべき声量と音域の広さで歌い上げた。

▲「BELL」に出演し京鹿の子娘道成寺を歌うゲルシーベル

ベルは民族音楽と実験音楽の専門家であり、ニューヨーク大学にて博士号を取得している。また作曲家としても活躍し、多数のミュージシャンとの共同制作や振付家やバンドへの楽曲提供も多数。昨年はトニー賞のベストミュージカルにノミネートされた「Natasha, Pierre & the Great Comet of 1812」に主演女優として出演。商業音楽の領域にも活動の場を広げている。

You Tube: https://youtu.be/SzChRUFBSo0(センター、Gelsey Bell)

2012年「BELL」の制作のため初来日し、歌舞伎と能を観劇。それ以来日本の古典音楽に深く興味を持つようになり、2017年夏に、京都芸術センターにて行われるTTT(トラディショナルシアタートレイニング)に参加。プロの能楽師3名による厳しい訓練を受ける。その際、余越保子の能楽の師匠でもある田茂井廣道氏(観世流シテ方)のもとで能「山姥」の謡を学んだ。

昨年夏1ヶ月の京都滞在を経て、「shuffleyamamba」のキャスト、スタッフに向けて「山姥」の独吟を披露した。その際に本作品のドラマツルグである筒井潤がインタビューを行った。

▶︎ ゲルシー ・ベル(作曲家)&筒井潤(ドラマツルグ)のインタビュー
     (2017年8月@下京区いきいき活動センター)
    


筒井 潤:ここで私たちは継承について語っているわけですが、パーフォーマンスがよいかわるいかの判断がつくようになれば、それだけですでに芸能の継承は行われたと私は考えます。伝統芸能の継承において、という意味ですが。あなたもこの点に同意しますか?

ゲルシー・ベル:ある程度は、継承と言えるでしょう。私は異なる音楽文化からきていますから自分を媒体とみなします。あるものは私を通過し、あるものは変化して通過するでしょう。

そういったことは避けられないことです。ある意味それは誰にでも当てはまることですが、私の場合は、特殊な形で通過すると思うのです。

筒井 潤:あなたを通過できないことがあるとすれば、それは何でしょうか?

ゲルシー・ベル:それが何であるかを答えるべき人間は、私ではありません。私はここで自分で出来うる限りの力を投入して能の謡を学ぼうとしています。私を通過しない事柄は、私自身には、見えないことです。私には、それが何であるかさえも思いつくことができません。

それと同時に、考えることがあります。(能曲山姥には)後ジテに「山また山、水また水」と謳う箇所があります。私の目に浮かぶ山は、私が育ったカリフォルニアの山々です。この作品には、山という言葉がたくさん出て来まが、私にとっての山は、そこに書いてある山とは全く違うイメージの山なのです。

そこで、私は疑問に思うのです。音楽の共通性とは何なのだろう、と。私たちはこの音楽を通して同じ山を想像するべきなのでしょうか?おかしな質問ですが。

 

筒井 潤:あなたが知らないうちに、あなたを通過した継承があり、それがが何であるかわからない、ということもありえますか?

 

ゲルシー・ベル:ええ、それは可能でしょう。例えば、宗教の役割を考えてみてください。

この謡曲は随所に仏教思想の教えが散りばめられています。私はキリスト教徒でも仏教徒でもありません。宗教とは全く無縁な環境で育ちました。これはアメリカでの経験ですが、私は昔キリスト教の音楽を歌っていたことがあります。キリスト教音楽の伝統技法の通りに歌っていると、キリスト教的な何かが私を通過しました。それも、わたしの知らないところで。それと同じようなことが、山姥を歌うことで発生するだろうと思います。

▲ 2018年3月のミシガン大学でのレジデンシーにて。ゲルシ・ーベル(左)と余越保子(右)    

▶︎ 30以下の若手ダンサーを起用することについて。

 

ニューヨークを長年拠点にしたのち京都に拠点を移してから余越が驚いたことの一つに、日本のコンテンポラリーダンス界における年齢制限の厳しさがある。

 

「若さ」とダンスが並列に直接的に結びついている日本では、コンテンポラリーダンスの観客は若い身体を見慣れており、若手育成、若手ダンサー、若手振付家という「若さ」に特化したプログラム、キュレーションが主だ。作る側にしてみれば、舞台経験が少ない若いダンサーを起用しての制作が必然となる。

 

余越にとってニューヨークでの20年以上の舞台活動では、30歳以下のダンサーを起用したことは稀であった。ダンサー起用において、高度な技量はもちろんのこと、多数の舞台経験、人生経験の豊富さ、コミュニケーション能力の高さを重視した。高校生プロジェクトなどあえて10代との共同制作も行ったが、若さゆえの無謀さ、無垢な身体、成長過程そのものを作品にするなど、はっきりとした命題があった。日本では超高齢とされる70代、80代の舞踊家との共同制作の経験も多い。

 

本作品「shuffleyamamba」は女性の視点からの芸能の継承を課題としている。3名の20代の若手女性ダンサーを起用することで、彼女達が「知らない」場所から「知る」場所へと移行するプロセスは何なのだろう。

▶︎SHUFFLE」について

 

タイトルにあるyamambaは、日本古来から存在する山姥というアイコンのことである。

 

同時に、余越のデビュー作でもあるソロ作品「SHUFFLE」(2003年)に登場した女性神の象徴であるイザナミを再訪し、イザナミ、白拍子花子、山姥などの日本的女性像を女性芸能の視点で眺めマルチプルな視点をシャッフルしていく。

パワフルな女性像は、そのパワーゆえに忌み嫌われ、同時に恐れられる存在である。日本のフォークロアにおいて、イザナミという概念から派生し年月を経て変換されていったものが山姥である

 

日本の伝統文化の芸能継承において、神聖なる舞台に女性が「穢れ」を持ち込むという視点から女性芸能者がメインプレイヤーとしての参加が長年拒まれてきた経緯にも繋がると考える。実際に余越が長年所属していた由緒ある日本舞踊の流派では「女性は男性に劣る」という発言を繰り返し耳にした。おさらい会は男性優位で進められ女性は「受付」という役職を与えられ、女性は継承者を生み育てる重要なパイプ役のみであり表舞台に立つことはない

補足であるが、日本文化研究の第一人者であるレベッカ・コプランド著の「Mythical Bad Girls: The Corpse, The Crone, And the Snake」では、日本文化史における「呪術的な忌わしい女性」の象徴として、イザナミ、道成寺における白拍子花子、そして山姥の3種類の女性像の分析研究をしている。余越も2003年より同じ女性像を巡る作品を制作しており、大変に興味深い。

 

15年にわたる日本舞踊と4年の能の訓練を通して、女性が主要テーマとなった日本の古典作品を多数学んでいくなかで、道成寺と山姥は突出して面白い。まず、二つとも、仏教思想が土台となっている。そもそも仏教思想は、女性は、業の深い存在であり、仏になる能力がないという女性蔑視を基本とする。この視点は時代を経ることでさまざまに変換してきており専門家の意見は多様である。

SHUFFLE」より。男神のイザナギを演じる余越保子。

SHUFFLE」「BELL」などの作品のクリエーションでは、イザナミや白拍子花子の現代女性としてのキャラクター作り、そのリサーチにおいて、仏教思想のフィルターをはずしてのクリエーションは不可能であった。余越自身が日本で生まれ育つことにより仏教思想の洗礼を受けており、潜在的な日本人の女性としてのあり方、その縛りから逃れることは難しい。

 

20代に渡米し、アメリカのフェミニズムに晒され、人種の坩堝(るつぼ)であるニューヨークで30年近く日本人女性ダンサーとして踊り、振付家として作品を作っていく中で、日本の象徴的アイコンのイザナミや白拍子花子を自身の身体を通してクリーションを通し巡ってきた。その途上で女性性について、を身体を通して実感として学んできた。shuffleyamambaに到るまでに、余越の演者として、演出家として、舞踊家として、「女性」を考察し続けてきた個人的背景がある。

 

そういった意味でこの作品はフェミニスト的思考を持つが、男性を否定したり攻撃したりすることを目的とするのではない。啓蒙作品でもない。ポジティブな目線でダンサーにとって、女性性とは何かを、ダンサーやコラボレィターと共に考えて行くことを課題とする。    

BELL」では道成寺の白拍子花子とバレエのジゼルのヒロインを歌舞伎役者と共演し、ジェンダーと宗教観(仏教とキリスト教)を交差させた。