ゲルシー・ベル(実験音楽家)× 筒井潤(演出家、劇作家)インタビュー


伝承から創造へ −米国人音楽家・ゲルシー・ベルが、日本の能「山姥」を謡う。

日本の古典芸能・音楽は、国境を超えてどこへ向かうのだろうか−。 

ヨーロッパ移民である米国人の音楽家・ボーカリスト・民族音楽研究者のゲルシー・ベルは、ニューヨークを拠点に、幅広い音楽のジャンルにおいて注目を集めるプロフェッショナルなアーティスト。余越保子との共同制作、前作『BELL』で日本の長唄を習得し、以降日本の古典音楽を愛するようになった。それまで西洋の音楽を基盤に学んできたゲルシーが、音楽の国境を越え、日本の多様でハイレベルな古典音楽の真髄に触れることで、自らの音楽性の新境地を創りあげることを目指している。

 

 2017年夏、ゲルシーは余越保子と新作“shuffleyamamba”での共同演出・音楽・出演のため、初めて京都に1か月間滞在し、作品制作のリサーチ活動を行った。京都芸術センターで行われたT.T.T.(トラデイショナル・シアター・トレーニング)への参加や、余越保子の能の師匠でもある田茂井廣道氏より、ゲルシー自らの兼ねてからの念願だった直接指導で「山姥」の謡いを学ぶなど、本作品制作における貴重なクリエイティヴィティな時間を過ごした。

アメリカ音楽のフォーク、ジャズ、ミュージカルシアター、ヨーロッパのオペラ音楽の研究と実践を重ねてきたゲルシーが、どのように日本の古典音楽へアプローチしていったのか、その思想とメソッドとは? そして古典芸能の伝承とは何を意味するのか?

ゲルシーのホットな京都でのリサーチ活動期間中に、同作品のドラマトゥルクを務める演出家・劇作家・俳優・公演芸術集団 dracomのリーダー、と多彩な顔を持つ筒井潤が、つくり手の視点からゲルシーに問うたインタビュー。

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話:ゲルシー・ベル 

聞き手:筒井潤

収録:201787日 京都下京区いきいきセンターにて

テープ起こし・翻訳:余越保子
編集・テキスト:水野立子

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ゲルシー・ベル

Gelsey BELL (ゲルシー・ベル) /共同演出、音楽、ヴォーカル、ニューヨーク在住。ヴォーカリスト、作詞家、作曲家、民族音楽研究家。自身の作品でのパフォーマンスが「高度なテクニック」と「輝くような声音」と評され、NY タイムズ紙に「実験的ヴォーカリズムの未来を予感させる」と絶賛された。ベルの音楽作品は世界中で上演され、これまでに多数のアルバムをリリースしている。現在、 thingNY, Varispeed, the Chutneys のコアメンバーとして活躍。パフォーマー、コラボレーターとしてロバート・アシュレイ、ジョナサン・ベプラー、マシュー・バーニー、 キンバリー・バートシク、ジョン・キングなどさまざまなアーティストと共同作業を行っている。また、ブロードウエイにも出演し、2017 年度のトニー賞ベストミュージカルにノミネートされたデイヴィッド・マロイ演出Natasha,

Pierre, & the Great Comet of 1812 』では、主演アーティストを務めた。2018Foundaiton for Contemporary Arts Award 受賞。http://gelseybell.com/

 

筒井潤

dracomリーダー。演出家、劇作家、俳優。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomの活動の他、過去には桃園会、『新長田のダンス事情』、『滲むライフ』(Dance Box)、『Silent Seeing Toyooka』(城崎国際アートセンター)等で演出、そして山下残振付作品、マレビトの会、KIKIKIKIKIKI、維新派、akakilike、悪魔のしるしの公演に参加等、様式やジャンルを問わない活動で注目されている。公益社団法人日本劇団協議会機関紙『join86号特集記事「私が選ぶベストワン2015」において、毎日新聞大阪本社学芸部の畑律江氏がベスト1演出家に選出。TPAM2016コプロダクション「アジアン・アーティスト・インタビュー」におけるインタビュアーとしての活動がYouTubeで公開中。


お能の謡を習う前は、歌い手が歌うときの音階が決まっていると思っていたんですが、そうではあり ませんでした。

謡う人によって、どんな音階から歌ってもよいのだと知りました。 私は能のそういう部分がとても好きです。

 

山姥を謡うことは、何処かにもっていかれる、って感じです。

日常から離れたところに連れて行かれるというか。(ゲルシー)    

筒井潤:お能の謡は初めてですか?

ゲルシー・ベル: はい。演劇ではなく、音楽という視点で接するのは初めてです。

筒井潤:お能の謡を楽譜に起こして準備されたそうですが、それは重要な出来事だったと思います。事前に音を理解したうえで、他のアプローチの方法がなく、こうせざるを得ないと思ったのですか? それとも、一番やりやすい方法がこれだ、と思って選ばれたのですか?

ゲルシー・ベル:最も効果的なやり方だと思ったからです。キリ(能一曲の最後の部分をさす)のところは、リズムがはっきりしているので、私が自己流で楽譜に起しただけですが、正しくできたと思います。 ですが、後ジテ(能の前後二場ある曲の中入り後に出るシテー主役ーが謡う部分)のところを楽譜にするのはこれで3回目ですが、単なるスケッチにすぎません。それぞれの音がもう少し上がるとか下がるとか、微妙な修正が必要です。尤も、この楽譜は個人的なものなので、他人と共有しようとは考えていないのですが。 日本に到着する前の準備段階では、先生の謡をCDで聞きながら正確に音符に起せたと思ったんですが、先生に直接お会いしてレッスンを受けたら、このノートがまったく役に立たないことが解りました。

筒井潤:後ジテが、特に音符に起し難い要素は何でしょうか?

ゲルシー・ベル:そうですね。。。自分で記号を発明しなければならないことです。西洋の音楽に存在しない記号を工夫して、自分で書き足していきました。ひとつの音の中で微妙に大きくなっていくような特殊な謡い方は、音符に書きようがないのです。 能の音楽の面白いところは、実際の音階よりも声が大きく跳ね上がること。これは西洋の音楽には存在しません。なので自分にしかわからない書き方をしています。一応西洋の専門用語を書き込んではいますが、お能の音楽が解っていな いと再現不可能です。 また、音階が一応書いてはあるのですが、音階の正確さはあまり大事ではありません。 お能の謡を習う前は、歌い手が歌うときの音階が決まっていると思っていたんですが、そうではあり ませんでした。謡う人によって、どんな音階から歌ってもよいのだと知りました。 私は能のそういう部分がとても好きです。伝統的な西洋音楽のオペラ的な訓練のみでなく、ジャズ音楽や実験音楽も自分はやってきているので、もともと楽譜がすべてだという考え方を持っていません。 私自身、作曲する音楽によって楽譜の書き方を変えてきました。自分は絶対音階を持っていませんから、流動的に音階が変わることはありがたいです。能は歌い手にとって親切な音楽だと思います。

筒井潤:今日の山姥のパーフォーマンスをやってみてどうでした?

ゲルシー・ベル:すごかったです。山姥を謡うことは、何処かにもっていかれる、って感じです。 日常から離れたところに連れて行かれるというか。今日は、謡の文言を完璧に覚えたわけでもないし、正座をしたり扇を持ったり、本来の所作を何一つ守っていません。でも、敢えてそうしなかったことで、自分をどこかに運んでくれました。

筒井潤:何処か、というのはどういう意味ですか?

ゲルシー・ベル:自分でない誰かになる、ということです。ゲルシー・ベルという私が、あたりまえの一日を過ごすという日常から離れて、自分でない何モノかになる、というか。山姥の謡の一部を声にするために、私にとってはですが、内面を剥き出した状態に自分を持っていく必要があります。能の仕舞もこれと同じようなことではないかな、と思いますが。

私は異なる音楽の文化・歴史的な背景から来ている人間です。ですから、私はフィルターです。何かは漉されて行き、何か

は変化していく、それを避けることはできません。誰にとっても起きることですが、私の場合はとても特殊な形で起きるだ

ろうと。(ゲルシー) 

 

ゲルシーさん自体が、自分が何を継承しているのかわからないまま、何かを継承してしまっている。自分が正しくできてい

ないと思っていても、知らないうちに継承しているものがある。(筒井)

筒井潤:これは余越さんから聞いたことなんですが、初日の稽古で、技術を習得する前のあなたの野生的な歌い方を先生が好まれたということですが、何故、先生がそれを好まれたか自覚がありますか?

ゲルシー・ベル: いえ、実は私は違う解釈をしていたんですね。初日とても緊張していて、先生に気に入られなくてはいけない、と思っていました。それで、お能は大きな声で歌うことを知っていましたから、ものすごく大きな声を張り上げたようです。緊張というのは演者にとってプラスになるのですね。

筒井潤:わからない、っていう状況って、すごく面白いと思うんです。習っていくうちに、何が間違っていて、 何が正しいのか、解ってくるのでしょうか?

ゲルシー・ベル:私はこの音楽に敬意を払いたいのです。その上で、自分が日本人でない、ということが既にそこに至れていない、同時に、日本語が話せないということも、敬意が払えていないのではないか。そういう前提でお能を習っています。

筒井潤:歌をうまく歌えるということと、正しく歌うということは違うと思うのです。お能を正しく歌えているかどうか、その判断を自分でしっかり審査できるかどうか、それだけでもお能を継承していると僕は思うのです。どう思われますか?

ゲルシー・ベル:その継承という意味ですが、わたしがこの謡本を正確に読めるようになる、ということですか? それとも、田茂井先生から直接技術を継承する、ということですか?

筒井潤:日本の古典芸能の継承という意味です。

ゲルシー・ベル:ある意味では、はい、継承していると言えると思います。私は異なる音楽の文化・歴史的な背景から来ている人間です。ですから、私はフィルター(媒体)です。何かは漉されて行き、何かは変化していく、それを避けることはできません。誰にとっても起きることですが、私の場合はとても特殊な形で起きるだろうと。

筒井潤:どうしても継承できないようなことは何でしょうか? それを言葉にできますか?

ゲルシー・ベル:そうですね。それは私が答えられることではない、と思います。自分が考え得る限りのことを学ぼうと思っていますが、私が継承できないという事自体を自分では認識できないと思います。ニュアンス日本語の言葉一つとっても、翻訳するプロセスで正確さが失われていきます。私がどんなに努力しても、言葉の意味だけでなく、言葉がもつ文化的な響き(ニュアンス)を完全には理解できないからです。
 山姥の後ジテの謡の言葉に、「山また山」そして「水また水」という箇所があります。そこを歌っていると、私が育ったカリフォルニアのシエラネバダの山々が目に浮かびます。私には山が見えるし、想像できる。そして、山姥の謡には、山に関する描写がたくさん出てきます。ただ、私の中に浮かぶ山々のイメージは、そこに書いてある言葉のイメージと違うものでしょう。そうなると、何が共通で、何が共通でないのかについて、疑問が生まれます。その境界線は何なのか? お能の山姥を謡う者が全員が同じ山を見ることは、どれほど必要なのでしょうか? 変な質問ですが。。

筒井潤:ゲルシーさん自体が、自分が何を継承しているのかわからないまま、何かを継承してしまっている、ということもあり得ますよね? 自分が正しくできていないと思っていても、知らないうちに継承しているものがある、ということも可能だと言えるのでは。

ゲルシー・ベル:そうですね。あり得るでしょうね。例えば宗教の役割を考えてみます。私はキリスト教でも仏教徒でもなく、無宗教で育ちました。アメリカで教会音楽を歌ったことがありますが、その時、自分では気づかないところでキリスト教的な何かが私を通過していったのだろうと思います。同じように、この山姥は仏教思想が散りばめられています。山姥の謡を歌うことで、わたしの気づかないところで、その仏教的なものが私の中へ入って来るのかもしれません。

お能は本質的に、何度も合わせて練習するとお能でなくなるということで、ごつごつした合わないところをあえて作っ

て、その中で演者同士がせめぎ合うんだそうです。・・・・略・・・・・・・・・・お能はノリで演じる。(余越)

筒井潤:(同席して聞いていたダンサーに向かって)ゲルシーのパーフォーマンスはどうでした?

ダンサー1:外国人がお能を歌うこと自体、初めて聞いたんですけど、こんな声は生まれて初めて聞きました。お能だからからなのか、なんだか教会にいるような感じでした。どこからこんな声が出るんだろう。普通のお能とは、声の出るところが違うように思います。

ダンサー2: 謡いの勉強をしていると、(正座の)座り方が悪いと声が出ないんです。下方にどっしり座っていると、声が下方から出てくるような気がします。

 

ゲルシー・ベル:それはおもしろいですね。正座は足がとても痛くなるので苦手なんですが、今度、正座して謡えるようにトライしてみます。私は既に習得しているオペラ的な歌い方とは違う、特殊なテクニックを使ってお能を謡っています。長唄の京鹿子娘道成寺を謡った時に習得した工夫を今回、能の謡いにも適応できるかもしれません。長唄を歌った時は、男のような声になるように努力しました。それで今まで知らなかった声の出し方を発見したんです。私はソプラノ歌手なんですが、チカラ強い音を下腹のほうに持って来る感じです。

 

筒井潤:チカラ強い西洋音楽のソプラノ的な歌い方で能を謡うと、山姥にならないってことですか?

 

ゲルシー・ベル:先生から律呂について習ったんですが、お能の高音は喉を狭くするので喉を閉めるそうです。これは男性の身体的な違い、喉の構成に起因しているかもしれません。お能は男性の声を基本にして作曲されています。女性は喉を狭くしなくても出ますから。今回の作品作りで、山姥を女性の演者が謡うにはいろいろな工夫が必要です。

 

余越保子:能楽は、男性の声を基準に書いてあるわけですから、それを無視することはできないのです。数名の能楽関係の方にインタビューさせていただいて、面白いなと思ったところは、お能の本番は基本一回のみと決まっていて、“申し合わせ”と言われる通し稽古も言葉通り、装束なしの役者同士の舞台上のやり取りが数回のみ。お能は本質的に、もし何度も合わせて練習するとお能でなくなるということで、ごつごつした合わないところをあえて作って、その中で演者同士がせめぎ合うんだそうです。

 ゲルシーが、それを聞いて言うには、ジャズミュージシャンの間でも同じような専門用語があって、セッションの時にあまりにカチッとしていると音がwhite =白い、っていうそうです。それは西洋の白人的な構築されたカチリと合わさった整合性のことだと思います。グルーブとドライブがあるとblack=黒い、っていうそうです。そのことを田茂井先生にゲルシーが伝えたら、とてもおもしろいとおっしゃって、だったら、お能は黒くて、歌舞伎は白に近いと。何故なら奏者がとても多いのでタイトに演奏をもっていきその合わさっているところが歌舞伎の見せ場なので白に近いだろう、と。反対にお能はノリで演じる。

 

筒井潤:ノリがいい、ノリはお能からきたって聞きました。英語の言うところのgroove =グルーブを日本語に訳すと、ノリ、ノルという言葉を使うそうです。

 

余越保子: 踊りの世界では、間って言葉を使いますよね。間がいいとか、わるいとか。

 

筒井潤: 山姥って女の鬼ですよね?

 

余越保子:そうです、お能の山姥は山に住んでいる女の鬼です。

 

 

筒井潤: 赤鬼って、日本人が西洋人を見たことがない時代に、西洋人の赤ら顔を見て、「鬼」と思った、と俗説で聞きました。その昔、西洋人が船で日本に流されてきたんでしょう。偶然もあったでしょうから歴史書 に書かれているわけではないですが。鬼の概念は中国に入ってきたそうです。 今回、アメリカ人のゲルシーが山姥の作品に出演するのは、そういう意味でも面白いですね。


インタビューを終えて


ゲルシーの目に移る山々を、世阿弥が書いた能山姥の謡にのせて謡うとき、そこには、色合いさまざにを変えて移り変わる雲や空が立ち上がる。

それはすでに山姥が象徴する森羅万象のようだ。(余越