シャッフルヤマンバ辞典


個人的な自分史と歴史的な史実や民話をまぜこぜにして作品を構築していくという手法を私は好む。ごくパーソナルな視点から過去の「語られることのない物語」を繊細に編み込んでいくことで、現在、そして未来のユニバーサルな物語へと転換し、舞台上に体感できる有為転変を生み出したいといつも願っている。わかりにくいと言われる作品を作ってしまうのは、わからないことを作品にしたいからだ。でも作っているときは、いろんなことを一生懸命考えて、作品と一緒に日々暮らしている。, 本作品に登場するさまざまな事柄を書き出し、解説書を作ることを思いついた。『shuffleyamamba』に立ち会う時間が密度の高いものになってほしいと思う。そして、観たあとの、味わいのお供に、または、公演を観に来たくても、観られなかった人が、あれこれと想像できるように、2年間書きためた文章を辞典のように項目別にまとめてみた。

 

2019年9月 余越保子

イザナミ

 

2001年当時、ニューヨークに住んでいた私は英語に翻訳された古事記をある日偶然手にする。冒頭に出てくるイザナミとイザナギの国生みの話に強烈に惹きつけられた。古事記をもとにして、2003年に、ソロダンス作品『SHUFFLE』を発表する。冒頭で、私はイザナミにチャネリングして国生みを行う。作中では、イザナミ役の私はヒルコと一緒に黄泉の国にいて、人参の形をした電話を通して夫のイザナギと繋がっている。夫役は当時の私の実際の恋人、ディーン・モス(共同制作者でもある)が演じている。このヒルコは『SHUFFLE』の初演後、15年間、ブルックリンの倉庫で眠っていたが、ニューヨークから京都に引っ越しするときにスーツケースに入れて日本に連れて帰った。本作『shuffleyamamba』に、このうさぎの形をした、ヒルコが再登場する。

▲イザナミ:余越保子『SHUFFLE(2003) @パフォーマンススペース122 スクリーンショット

− SHUFFLE (シャッフル)

 

『SHUFFLE』は、自分はなぜこの世に生まれてきたのか、という問いから始まり、宇宙や世界はどのように成り立ったんだろう、という単純な疑問から生まれたソロダンス作品である。裸体や自慰行為、巨大なペニスが登場するため、露出系パーフォーマンスに慣れているニューヨークのダンス界でも当時かなり物議を醸し出した。

 

イザナミの住む黄泉の国の話、そして、私の母方の家族の話、このふたつの世界を舞台上でシャッフルしてみようと思いついた。私の母方の家族は、瀬戸内海上で起きた船の事故でほぼ全滅している。母は養女として叔父夫婦に引き取られ、その後、お見合いで父と出会い、姉と私が生まれた。

 

家族の死によって、自分がこの世に生まれた、ということを考え始めたのは、大人になってからだ。疎遠になっていた親戚を辿り、船の事故で亡くなった祖父や叔父たちの写真を手にした時、唐突に舞台上で降霊術(チャネリング)を行ってみようと思った。私は幼い頃から降霊を行う習慣を持っていた。バレエの発表会では、舞台に出る直前に、亡くなった祖母を傍らに呼び寄せて、舞台に立っていたのだった。それはニューヨークでプロのダンサーとなってからもずっと続けられた。

 

奇しくも、『SHUFFLE』のクリエーションを始めるや否やニューヨークで同時多発テロが勃発。4000人以上の命が一瞬で奪割れた。世界貿易センターの2つのタワーが、積み木のように脆くも崩れ去るのをブルックリンのアパートの屋上からこの目で見た。生と死の境目がわからないような日常がいきなり襲ってきたのもこの時期だ。

 

2003年3月20日。『SHUFFLE』の公演初日はイラク戦争の開戦日だった。作家として初めて書いてもらえるはずだったNYタイムズ紙のダンス批評が戦争記事のためにキャンセルになったと批評家から連絡を受けて涙を流したのを覚えている。『SHUFFLE』は、翌年のベッシー賞最優秀作品賞を受賞し、私にとってはデビュー作品となった。

− ヒルコ

 

古事記によると、女性神のイザナミと男性神のイザナギが国生みで、最初にまぐわってできたのが「ヒルコ」である。ヒルコは、子作りの際に女神であるイザナミから先に男神のイザナギに声をかけた事が原因で不具の子に生まれたため、流されてしまう。このヒルコを自分で作ろうとして、白い端切れを縫い合わせて棉を詰め込んで、デタラメに作って行ったら、なぜかうさぎになってしまった。それで、人参電話を思いつき、黄泉の国から、恋人のイザナギに人参電話で話をするというシーンが生まれた。『shuffleyamamba』では、福岡さわ実が冒頭で、『SHUFFLE』のイザナミにチャネリングして登場し、そこから、時間を遡りヒルコになって生まれ出づる。

▲イザナミとヒルコ:余越保子 撮影:Ayumi Tamaki

− マーサグラハム

 

私のアメリカン・モダンダンスへの洗礼は、マーサ・グラハムであった。マーサ・グラハムという存在を知ったのは20歳の時だ。アメリカでバイリンガル秘書になるために留学した大学で、体育としてモダンダンスの授業を受けたのがはじめである。幼い頃は広島の小さな町でクラシックバレエを8年ほど習った。その後高校では剣道部に所属。モダンダンスも、マーサ・グラハムも、知る由もない。

 

マーサ・グラハムのすごいところは、ひとりの優れたダンサーが、バレエとは全く異なる美意識とシステムを発明し、その身体的強度を手に入れるための独自の訓練法=テクニックを作り出したことだと思う。それは、マーサ・グラハム・テクニックと呼ばれ、現在も主要なアメリカの大学の舞踊学部で基本訓練として教えられている。

 

バレエとの大きな違いは、バレエシューズを履かずに裸足で踊ったことだろう。コントラクションとリリースという至極自然な筋肉の収縮運動を基本にして、内面的な感情やエネルギーを可視化するための表現方法や理論を一から作り出した。マーサが小柄だったこともあり、自分の身体に似た日本人を好んでカンパニーメンバーに抜擢している。重心を低くして、膝や股関節、足首の柔らかさを要求されるグラハム・テクニックは、アジア人女性によく似合う。一昨年前に発売されたマーサ・グラハムの基礎を学ぶDVDをニューヨークで買って日本に持ち帰った。滞在制作期間中は、ウォーム・アップとしてこのDVDを使用した。冒頭で行われるダンスのレッスン風景が、そのグラハム・テクニックである。

− マースカニングハム

 

本作で唯一の男性舞踊手として登場する、大崎晃伸さんが着用する衣装は、モダンダンス界の神、マース・カニングハムによって振付けられた『サマースペース』の衣装、ユニタードをモデルにしている。衣装担当の岩埼晶子さんがインターネットで見つけた写真を参考にして作ってくれた。私たちの間では、レインボウ(虹色)レオタードと呼ばれている。, アメリカの主要な大学には舞踊学部があり、そこでは、上記のグラハム・テクニックやカニングハム・テクニックが、必ずと言っていいほど教えられている。カニングハムは、プリンシプル・ダンサーとして、マーサ・グラハムカンパニーで踊っていた。グラハムから継承したものは、非グラハム的なもの、つまり、ドラマや物語性を完全に削除したダンスだった。師とは真逆な方向を目指したところが痛快だ。マースが踊る舞台を何度か見たが、存在感の透明度の純度が高かった。動物のような奇妙な動きをエネルギー全開で踊っても、ギラギラとした油っぽさのない、夏の少年のような爽やかさが立ち上る。20世紀の現代美術に多大な影響を及ぼし、その芸術性の高いピュアなダンスで世界中のアーティストや観客を虜にした。

− ジェンダー

 

私が24歳のときに初めて振付けた作品は『ジェンダー・トーク』というダンスで、女性性と男性性を男女の差異としての比較ではなく、ひとりの人間の中に共存する相対的なジェンダーを見つめた作品だった。, アメリカに留学して2年目、今では日本でも市民権を獲得しはじめたLGBTは、1980年当時、リベラルな校風で有名だったカレッジでは日常茶飯事のことだった。広島の田舎で育った私にとって、社会的な女性と男性という考え方そのものが驚きであり、女性として生まれるのではなく、社会や文化や政治が女性を作り上げるという考え方が新鮮だった。ジェンダーという言葉とその意味を知ったとき、自由と混乱を一度に浴びた鮮烈な記憶がある。

 

男性目線で鑑賞する女性の肢体を、客体として、そして、商品として、晒す、見せることで成り立ってきた日本の女性芸能者の歴史と、単なる抽象的な身体としての西洋的なコンテンポラリーダンスの歴史。この異なる視線が同じダンサーに宿り、同時多発的に舞台上で起きるとどうなるのだろう。女性芸能者の祖といわれた傀儡女(山巡りをして体を売っていた女性芸能者)は現代では何を象徴するのか? 男性の能楽師により、女性神を男性的な力強さで演じられてきた山姥の魅力。そして、現代にいたるまで伝統芸能者は、なにを守り、継承しつづけてきたのか? ダンサーと芸能者の根本的な違いは何なのか?

 

作家として、私は複雑で答えのありようのないものを作品にすることに興味があり、演劇ではなく、ダンスでなければ語れないものに興味がある。ダンスで語るとは、矛盾して聞こえるが、身体で語る物語は、言葉で語る物語よりも、よりドラマティックで直接的だ。私は、本質的にドラマが好きなのだ。

身体を読むことで、文化や社会を読むことができる。大げさに言えば、身体そのものが政治である。それをニューヨークで35年間、移民として生きることで学んだ。身体を読むことは、社会や政治を読むことでもある。そして、ジェンダーを考えるには身体を読み取るのが一番早い作業だと思っている。

男性性と女性性

 

私が生まれた時、父は学校で勤務中(中学校の教師だった)ため、出産に立ち会うことができなかった。「女の子です」という病院の報告を聞き、男の子を待ち望んでいた父は、がっかりして、病院にさえ来なかったと母が恨みがましく話してくれたことがある。60代で早くに亡くなるまで、父は私を溺愛してくれた。一方、母にとって、養女先の家名を継ぐ使命を託されたため、男の子を産めなかったことは、ストレスだったに違いない。誰が家を継ぐのか、将来は婿養子を、など私が高校生になる頃には、面倒な話題が食卓にのぼるようになった。

 

私は20歳になると単身渡米し、日本から脱出する。その後35年間の間、ニューヨークでコンテンポラリーダンサーとなり、振付家となって、自分がやりたいことをやりたいように、自由奔放に生きていった。もちろん自由を得ることで起きる様々な苦境を乗り越えながら。

 

世阿弥作の『山姥』は、夫や恋人や子供など、他者を介在することで女性性を際立たせるというプロットが西洋を問わず古典作品の大部分を占めるなかで、女性のみの存在と視点が、ものがたりの中枢を握るという点から、かなり特殊な作品とされる。その点に共同制作者のアメリカ人のゲルシー・ベルは着眼した。

− ゲルシー・ベル

トニー賞のベストミュージカルの候補になったブロードウエイプロダクションに準主役として出演するなど、エンタテーメントの世界でも活躍するゲルシーであるが、極めて特異な才能と経歴を持つ。民族音楽の博士号を持ち、実験音楽の作曲家でもあるゲルシーとの出会いは、2012年に遡る。歌舞伎舞踊の『京鹿の子娘道成寺』とクラシックバレエの『ジゼル』を軸に制作した『BELL』に長唄のヴォーカリストとしてオーディションに現れた。東京で行われた制作滞在の際に、長唄の唄方、杵屋三七郎氏のもとで特訓を受け、超難曲とされる「道成寺」を歌い上げ、本番で共演した邦楽囃子方の一同を唸らせた。今回は、ゲルシーは、作曲家として作品全体の音楽を担い、出演も兼ねる主要コラボレーターとして参加する。

▲ ゲルシー・ベル 撮影:Reuben Radding

− 伝統芸能

 

日本人独特の美意識に写実があると本で読んだことがある。古典芸能の発展は、写実を好む文化、様式や型に執着した国民性と背中合わせであると理解している。様式美から入って、突き詰めていく個々のアプローチの仕方は「〇〇流」と呼ばれる。

 

形を見つめ、形に宿る真実を見つめる。日本舞踊やお能が、西洋式訓練を受けたダンサーの私にとって面白いのは、いつも他者を想定した意識を要求される訓練法だ。自分ではない誰か、それは師匠だったり、家元だったり、流派の祖先だったりする。この、他者の厳しい目線を意識する自己のあり方は、演者に自我の滅却を強要する。

 

西洋のダンスもフォルムやスタイルは千差万別にあるが、ダンサーの目線は常に主体であり、己という執着がまず先に来る。ダンスは、自分の体「で」踊るので、身体の管理者は「我」だ。日本の芸能の訓練は、自分をまず空っぽにするところから始まる。身体の捉え方が基本的に違うと思う。

▲ 左から:Julie Alexander , Kayvon Pourazar and Naoki Asaji in "Tyler Ryler"(2010) 撮影:shinpei Takeda

− 京鹿の子娘道成寺

『SHUFFLE』の公演直後、2003年にアメリカ人として、ニューヨークから東京にダンス留学をして1年間東京に住んだ。その時、日本舞踊のある流派に入門し、その後、10年間に渡りニューヨークと東京を往復する生活が始まった。作品制作に日本の古典舞踊が入ってきたのもこの頃である。

 

日本舞踊は、先生と弟子が鏡のように相対して、一対一でお稽古を行う。『京鹿の子娘道成寺』のように長い作品は、覚えるのに何ヶ月もかかる。しかし、それは、師匠の真似をして 踊る、振り写しであり、真似そのものが訓練である。道成寺を人前で踊る、と言う芸術的アプローチは、完全に振りを覚えた後にやっと始まる。その道のりは厳しく過酷である。

 

日本で生まれて育ちながらも、多くのダンサーは、西洋のダンスの訓練のみを受けてダンサーになる人が多い。日本のダンサーは、母国の古典芸能を習うことは一般的ではない。他のアジア諸国のダンサーたちは古典舞踊からコンテンポラリーダンスへと移行することが多いので、日本はかなり特殊な国と思う。まず、日本の伝統芸能の世界に本格的に入るには、経済的基盤が必須である。クラシックバレエもしかり。コンテンポラリーダンスを生業とする自分のような人間が、高尚とされる、敷居の高い伝統の世界に近づくとどうなるのか? コンテンポラリーダンスは、日本ではかなり格下の芸能者と見なされる。そして、私が経験した10年間は発見と驚きの連続だった。

 

2011年、『BELL』というタイトルの京鹿の子娘道成寺を現代の文脈で作るというダンスプロジェクトの大きなコミッション(委託事業)をニューヨークライブアーツという劇場より受けた。(ゲルシー・− ベルが参加した作品である)この時は、アメリカの潤沢な資金があり、ニューヨークの劇場の広報力もあり、師匠も全面協力だった。歌舞伎役者、囃子方を含めた総勢11名の大きなプロジェクトへと膨れ上がった。道成寺のお稽古は、2年に渡り続けられた。始めはよかったのだが、徐々に困難になってきた。今に至るまで私にはその理由がわからないのだが、ある日を境に師匠にお稽古をしてもらえない状態が長く続いた。私はお稽古場にひとり残されることが多かった。 ひたすら辛抱強く待った。誰の助けを得ることもできなかった。そして、私は作品を完成しなければならなかった。とても困難なプロセスとなり、精神的、肉体的な限界に到ったため、公演中に倒れて救急病院に運ばれ、命からがら公演を終えることができた。その後、お稽古場を去った

− コンテンポラリーダンサーが踊る日本舞踊

『shuffleyamamba』に登場する、長唄『京鹿の子娘道成寺』の振付は、『BELL』という作品で私が踊った同じ振り付けである。『BELL』の著作権は作者の私にあるため、古典舞踊の道成寺をコンテンポラリーダンサーが踊る、という特殊な状況が生まれた。

 

道成寺は仏教の教義をベースにして作られている。道成寺は女性の普遍性、どんな女性にも闇があるという考え方がベースにある。ひとりの不幸な狂った少女の話ではなく、女性という生き物には、煩悩や業があり、それは自然の摂理であり、そのために魂を鎮めるという仏教的課題を扱っている。 歌詞の中に、女性は煩悩から逃れることができない、永遠に成仏することのない魂を歌い上げているところ、それは、山に住む女の鬼、不穏な存在の象徴としての山姥のアイデンティティとも繋がる。主役の花子は白拍子であり、「生娘ではない、白拍子である」という花子と坊主との有名な問答がある。

 

白拍子の前身は傀儡女であり、未来のセックスワーカーだ。

 

上記に着目して、今回の作品に挿入した。また、日本舞踊家でもない私が日本舞踊の代表作である道成寺を日本舞踊の基礎のないコンテンポラリーダンサーに教えることは全く正統な踊りの継承ではない。では、間違った継承が生むダンス、それが美しく見えるのはなぜなのだろう。そんなことを考えながら、日々、お稽古をした。

 

▲ 左から:渋谷陽菜、上野愛実、西岡樹里  撮影:Yasuko Yokoshi

− 白拍子

 

しらびょうし。なんと美しい響きのする言葉なんだろう。歌や踊りが達者な女性、そして、遊女。白拍子を題材にした作品は、お能や歌舞伎、日本舞踊作品に登場する。例えば、日本の源義経の愛人の白拍子の静御前。そして、道成寺の白拍子花子。烏帽子を被り、袴をはいて男装することで、彼女たちは、神へと、社会的な高い地位へと、そして、恋人の近くへと近づくことができた。美しい女性による男装の装いは、演者の身体のテンションを上げ、妖艶さを生む。見るものを魅了し、惑わす女性芸能者は、悲劇の主人公として人気が高く、数奇な人生を題材にした演劇や舞踊が生まれた。

− 山姥

 

『SHUFFLE』を発表後、燃え尽き症候群に陥った私は、パートナーが東京藝術大学の客員教授として日本に招聘されたのを理由に、アメリカ人ダンサーとして日本にダンス留学をすることを決意する。某流派の日本舞踊のお稽古場に縁あって入門し、その後、そこで10年にわたり日本舞踊を厳しく仕込まれていく。そのお稽古場は、「三階さん」と呼ばれる若手の歌舞伎役者や著名な劇団の役者、そして、テレビや映画界で活躍するスターが通うプロフェッショナルな舞台人のお稽古場として古典芸能界で知られていた。

 

古株のお弟子さんのお稽古に、『山姥』が登場することがあった。「そろそろ『山姥』をやりましょうか。」という師匠のツルの一声で、『山姥』の歌がお稽古場に流れる。その歌には、押し殺したような女性の声で、山巡りをする年老いた遊女が登場し山へと消えていく様が描かれる。「格」のある作品と言うものが世の中にはあることを知ったのも『山姥』であった。『山姥』がお稽古場に登場すると、緊張感が漂った。姉弟子が、『山姥』は特別な弟子だけに許される踊りだと教えてくれた。歌舞伎や日本舞踊に登場する山姥は、昔遊女だった女が山に入り、おとぎ話に登場する金太郎の母となり、息子に別れを告げて自らは山巡りをするために消え去っていくという設定だ。

 

一方、世阿弥が書いたとされるお能の『山姥』は、森羅万象をあらわす女性神の象徴として登場する。山姥の山巡りを歌って有名になった若い遊女の百万山姥が山の中で本物の山姥に出会う。夜になると山姥が再び現れ、若い芸能者を前にして、自身が山姥を舞い謡う。自分(山姥)のことを歌って評判になったのに、自分のことを供養もしてくれないといって霊魂になって現れて恨みを告げる。「縁があって出会ったのだから、わたしを忘れないでほしい」とういようなことを言って、最後に山へと消えていく。謡の文言には、壮大な山や水を自然描写した美しい漢字がちりばめられている。日本舞踊の山姥は艶っぽいが、能の山姥は、カラリと乾いている。

− shuffleyamamba(シャッフルヤマンバ)

 

ネット上のウイキペディアによると、山姥は、足柄山に埋められたイザナミがのちに山姥となった、と記してある。国づくりのために火を産むことで死んでしまったイザナミが、山姥となって蘇り永遠に生きながらえていく。その山姥が、今も生きていると想像すると面白い。

 

民間伝承の「山姥」は、さまざまな解釈や読み解きがあるが、世阿弥の書いた「山姥」は、女性芸能者の芸能の継承にまつわる話と解釈できる。芸能の継承とは過去と今と未来をつなぐチャネリングであり、継承は、永遠に再生されていくパーフォーマンスの繰り返しである。『SHUFFLE』に登場する伊邪那美と「山姥」を合体して、タイトルの「shuffleyamamba」が生まれ、ダンサーの身体によって、お互いの身体的歴史をシャッフル再生しつづけることをクリエイションの軸とした。

▲ 砂山典子 撮影:Yasuko Yokoshi

− 傀儡女(くぐつめ)

 

日本の女性芸能者の始源は、超越的で異端な存在だった。日本の舞踊史の根源である巫女、傀儡女や遊女、そして白拍子などの女性芸能者の歴史を見ると、日本の芸能史において、性と芸能の関係は切っても切り離せない。視点を変えればtransgression=反社会的なエンパワメントが芸能とも言える。日本の女性パーフォーマーの原型である傀儡女が山を巡りながら、芸を売り、身体的能力を糧にして稼いでいたそのパワフルな自活力と、現代のコンテンポラリーダンサーが副業を転々としてノマド(放浪者)のような生活を送りながら舞台に立つ姿は、遠からず近い。セックスワーカー、ショウダンサーの域まで広げ、女性の視点から芸能史を探ってみたいと思った。

− 出石永楽館

2015年に城崎国際アートセンターで『ZERO ONE』という作品で制作滞在した際に、ロビーに置いてあった出石永楽館のチラシを発見し、永楽館を見学に行きたいとディレクターに申し出た。その時に、あまりに興奮したのであろう、帰りの車の中で、「いつかあそこで公演がしたい!」と連発したそうである。それを覚えていてくださった城崎国際アートセンターのディレクターの吉田さんから3年後に今回の公演のお話をいただいた。なんでも夢は言葉にして見るものである。日本全国に小さな芝居小屋が残されているらしいが、その大半は劇場としてもはや使われることなく、映画館や歴史的建造物になってしまったと聞く。劇場そのものがアートである。木のぬくもり、板の柔らかさ、照明も音響も人に優しい。ここでいろんな旅まわりの役者さんが汗水垂らして舞台に立って町の観客を熱狂させたのであろうと思うと、胸が熱くなる。

 

私の最も好きな映画の一つに、地方の芝居小屋を旅して回る旅役者の人生を描いた、小津安二郎による『浮草』がある。あんまり好きすぎて、ダンス作品に映画のシーンをモチーフにダンスを振り付けたことがある。白黒とカラーの二つのバージョンがあるが、唸るほどカメラワークと光と振付と演出のバランスが素晴らしい。この映画を見て以来、旅芸人に憧れを持つようになった。

 

 

▲ 出石永楽館での稽古風景

− 日本の悪女トップ3

 

アメリカのワシントン大学の教授であり、日本文化文学研究者のレベッカ・コープランド著による、「Mythical Bad Girls:The Corps, the Crone and the Snake (神話に登場する悪い女の子たち: 死体、山姥、そして、蛇と)」いう文献によると、古事記に登場する女性神「いざなみ」、世阿弥作の能「山姥」、そして、歌舞伎の京鹿の子娘道成寺に登場する「白拍子花子」(本性は大蛇である)の3人を、日本人女性の象徴的なアイコンとして、日本の悪女トップ3として掲げている。この全ての女性を網羅して作品を作っています、というメールをコープランドさんに送ったら、『shuffleyamamba』をアメリカから観にいらっしゃるそうである。お会いできるのを楽しみにしている。

− サン・ドニ

 

ダンサーたちの間で呼ばれている「サン・ドニ」と言うセクションがある。サン・ドニというのは、パリにある歓楽街の名称で、東京で言えば、歌舞伎町のような場所だ。ここサン・ドニは、作品に出演者する一人のダンサーにとって、彼女がセックワーカーとして働くきっかけになった記念すべき場所であると教えてくれた。それについて詳細を話してくれる電話のインタビューが作中に登場する。「また、そのサン・ドニのね、店の名前、忘れちゃった、ってか、ぜんぜん覚えてないんだけど、そこで全てが生まれたみたいな 、ま 、とても印象深い、ゆかりのある場所でして」という風に始まる。

 

透明なアクリル板を仕切りにして、客と女性が向き合い、女性はマスタベーションをして男を喜ばせるという仕掛けの店である。この行為が、客と女性の真剣勝負であり、それは、ダンスと一緒なのだ、と悟った彼女の言葉に感動した。彼女は50歳を過ぎてもなお、現役のバーレスクダンサーである。観客に「見せる」そして、客と「遊ぶ、つながる」を熟知したエンタテイナーの職人であり、クリエーションにあたり彼女の若いダンサーへの影響力は絶大であった。このような現場で起こるダンサーからダンサーへの継承が私にとっては何よりの喜びであり、創作の原動力となった。

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作中に登場するのは、ツキノワグマという本物の熊の剥製である。この熊の所持者は、出川晋くんという若い現代美術作家である。アーティストの彼は、同時にマタギを目指しており、実際に東北に定期的に出向いてマタギの師匠について、熊狩りに参加している。大柄で、力持ち、気持ちの良い青年であり、師匠に相当気に入られたのであろう、狩の手伝いのお礼に、師匠が自ら剥いだ熊の毛皮をもらったと教えてくれた。(その工程は緻密であり、大変に複雑と聞く)その熊を作品で使わせてほしいとお願いし、出川くんから快諾を得た。熊ちゃんと呼ばれ、舞台裏では、大切に大切に神様のように扱われている。, 山の情景をどう設定して良いか迷っていた。映像や照明で山の中の雰囲気を出すことは可能だったが、永楽館という芝居小屋の雰囲気に合う「山」そして、「神々しい」空間について随分と悩んだ。ある日、この熊ちゃんを出川くんのFacebookで目にした。あっ、これでいこう、と思った。熊ちゃんに初めて会った時の、畏怖と崇拝が同時に湧き出るその身体感覚をずっと覚えておきたい。

▲ イザナミと熊:福岡さわ実 熊提供(出川晋) 撮影:Yasuko Yokoshi

− ラジオ

 

作中に登場する、大きなラジオと小さなラジオ、ブラウン管テレビ、そしてVTRビデオ。音楽や映像を運ぶ最先端の道具として昭和の時期に大活躍したこれらの電気機器は、今や過去のものである。しかし、どんな古いラジオでも、「今」の音楽やニュースを運ぶことができる。古臭いブラウン管テレビのモニターは、ライブフィード(リアルタイムで映像を共有すること)の「現在」を映し出すことができる。

 

舞台作品は、時間軸と空間軸を常に扱う役割を担っている。自分は映像も手がけ、少しは編集もするので、時間の速度や時空の不思議に興味がある。録画されたものがライブの舞台に上がることで、現在進行形の緊張感を発してしまう習性があるのを知っている。未来と今と過去が同時に舞台上に沸き立つ魔法を何度も目撃してきた。

 

舞台上の現実と虚構の関係性も面白い。ドキュメンタリー(記録映像や記録音声)が持つ、その生々しい素材にも魅了される。それは、時空を超えて、今ここに現れる現実であり、虚構であり、舞台上のライブパーフォーマンスが持つ可能性を大きく広げてくれる頼もしい存在だ。

編集協力:城崎国際アートセンター